人気ブログランキング | 話題のタグを見る

石垣島便り

modama.exblog.jp
ブログトップ
2007年 06月 06日

ナンバンコマツナギの来た道を探って (八重山の藍)

丸い地球を「銀の船」と「絹の船」が巡る

出航の準備
 ヨーロッパにおいて大航海時代が幕開けとなったのは、それまでヴェネツィアを中心とするイタリア都市国家が香辛料の東方貿易を占領していたのに対し、異教徒のオスマン・トルコが地中海に勢力を伸ばしたため、香辛料の産地である東方(アジア)とのルートが断ち切られたこと、それにキリスト教徒維持・拡大に始まるとされています。そのためスペイン、ポルトガルは大西洋航路の開拓をめざしました。
 1492年、コロンブスが西インド諸島に到着する一方、ポルトガルはアフリカ大陸を迂回(喜望峰周り)して、1498年、インドのカリカットに到着します。インド航路を先取りされたスペインは、その後、コロンブスの開拓した航路に幾多の船団を送り込みました。そして、目的の香辛料は入手できなかったものの中南米の広い地域を植民地化します。ここでは、多くの先住民インディオたちを駆逐し、大量の銀を入手しました。
 それでも飽き足らないスペインは香辛料を求め新大陸を南下してマゼラン海峡を迂回し太平洋にたっします。この時の航海者がポルトガル出身でスペイン王、カルロス1世の命を受けたフェルナンド・マゼランです。途中、グァム島などを経由し、1521年フィリビンに上陸します。彼はこの地で地元民との戦いに敗れ命を落としますが、乗組員の一部が後にスペインに帰国し世界一周の偉業が達成されます。
 その結果、スペインは新大陸から太平洋を横断する西回り航路を開拓しました。このようにして、ヨーロッパを中心とする東航路と西航路がアジアに繫がり、地球が丸いことが確信されていきます。
 ここでは、世界史を大雑把に見渡し、「人」と「物」の流れを説明しました。

出船
 「ナンバンコマツナギ(八重山の藍)はどんな道をたどって八重山に来たのでしょうか。」
でも、その前にちょっとだけ寄り道をしましょう。
「サツマイモはどのようにして日本に入って来ましたか」と言う問いに「薩摩←琉球←中国」と答える人は多いと思います。では「サツマイモは中国が原産なのか?」という問いには何と答えますか。
実は、ナンバンコマツナギと同様、新大陸中南米原産なのです。
すると、同じような道をたどって来たのかも知れないことが想像されます。
もう一度、歴史に目を向け、今度は、アジアに焦点を当ててみましょう。
 ブラジルを除く中南米の広い地域を手中に治めたスペインは大量の銀を獲得し、さらに西を目指します。太平洋横断の航路もマゼラン海峡を迂回せず、より最短コースを開拓してメキシコ太平洋側のアカプルコに開港します。ここを拠点にしてアジアとの貿易を展開しようというのです。マゼランがフィリピンに初上陸した後、1565年にセブ島に植民地を設立したスペインは、1571年にマニラを侵攻します。そして、スペイン~アカプルコ~マニラの貿易ルートが確立し、フィリピン初代総監にはミゲル・ロペス・デ・レガスピが就任しました。
 この時の記録によるとマニラは、すでに貿易港として栄えており中国人や日本人の居留民が滞在していたそうです。日本の時代で言えば、元亀二年に当たり織田信長が比叡山を焼き討ちした頃です。キーワードとして「呂宋」「堺」「茶の湯」などが思い浮かびませんか。そうです、南蛮貿易の盛んだった時代です。日本からも堺や博多の商人たちが東南アジアを目指していました。日本からは銀や工芸品、中国からは絹織物、陶器、スペインからは中南米の銀やヨーロッパ産ぶどう酒、ガラス製品が持ち寄られ交易されたのです。スペインのガリオン船は、行きは「銀の船」帰りは「絹の船」と呼ばれマニラ・アカプルコ間を長きに渡って航海したそうです。
 しかし、この頃のスペインはアジアにおける交易拠点創りとキリスト教の布教に力を入れ、植民地経営で農産物の栽培などにはあまり着手しなかったようです。その後、18世紀になってヨーロッパ諸国がアジアに押しかけてきます。イギリス、オランダがインドとインドネシアに入り、フランスがベトナム、ラオスを植民地化していきます。植民地経営も形態を変え、強制労働による農場経営が盛んになりヨーロッパに多くの生産物資が送り込まれるようになります。その中の一品目に「インド藍」がありました。
 また、ちょっと寄り道をしてみましょう。
 染織好きの皆さんは、東南アジアや中国南部の少数民族に心引かれると思います。それぞれ独特の染織文化を持っています。私は個人的に台湾蘭嶼島に暮らすヤミ族の繊維・染料植物の調査に行ったことがあります。ヤミ族は藍染はしませんが、多様な組織織を伝えています。ここでは染織のことは、ひとまず置いておき、その時、ふっと疑問に思ったことは、儀式の時になると多量の銀製装身具を身に着けることです。それは東南アジアや中国南部の少数民族でも同じことが言えます。苗族が唄垣の集まりに参加する時の光景を思い浮かべてください。可愛い乙女たちが身に重過ぎる程の首飾り、髪飾りを着けています。いったいどのようにして銀を入手したのでしょう。
 蘭嶼島に暮らすヤミ族の場合、島には銀鉱山がありませんから、どこからか外部より入手したとしか考えられません。彼らはフィリピンから渡ってきた民族と言われていますので、きっと、過去において交換入手する機会があったのでしょう。
 そのように考えると、スペイン人が中南米からマニラへ多量に運び込んだ銀、また、日本人の銀も同様ですが、それが、中国人の持ち込んだ絹と交換され、再び中国人によって少数民族の手に渡ったのではないかと想像したくなります。これはあくまでも想像です。
 寄り道して「物」の流れを推測しましたが、中南米原産のサツマイモがスペイン人によってマニラへ→その後、中国人によって福建へ→琉球人が沖縄へ→そして薩摩へ渡ったように、ナンバンコマツナギも似たようなコースを辿ったのかも知れません。

 入船
 それでは何時頃、ナンバンコマツナギは八重山へ伝えられたのでしょうか。
1477年、朝鮮済州島民が八重山諸島で見聞し李朝に帰って報告した「李朝実録」の記述に見られる藍染とは、ナンバンコマツナギだったのでしょうか。
 サツマイモは1604年、野国総監が福建から沖縄に伝えたと記録にあります。その前にマニラから福建に入ったとして、スペイン人は1521年にはフィリピンに到達しているので充分考えられます。ところが、1477年にナンバンコマツナギが八重山で藍染として使われていたとは考えられません。もっと後の時代に入って来たことになります。
 それではインド原産とされるタイワンコマツナギ(シマコマツナギ)はどうでしょうか。
農林省熱帯農業研究センター刊「熱帯の有用作物」によると「中央インドに自生するが、インド各地に栽培され、(中略)オランダ人によってマライに導入され、同地の中国人が盛んに栽培して、マライ産インディゴの中心種となった。ペナンにはインディゴ栽培に関する1802年の記録がある。」と書かれています。
 やがて中国人によって南中国や台湾にも入り「木藍」と呼ばれ栽培されるようになります。
 しかし、沖縄に残る古文書にはその名は見られません。それだけでなく、明治に入って
二代目沖縄県令(初代知事)の「上杉県令沖縄県巡回日誌」明治十五年にも現れませんし、明治二十六年、笹森儀助著「南島探検」にも、山藍の記録は詳細に書かれていますが、「木藍」は登場しません。さらに、大正四年児玉沖縄県技師のまとめた「沖縄県染料植物」においても、リュウキュウアイ(山藍)、アイ(玉藍)、やソメモノイモ(紅露)は説明されていますが、ナンバンコマツナギもタイワンコマツナギも「木藍」も書かれていません。
 もし、古い時代から八重山諸島で使われていたとすれば名前は何と呼ばれようとも、上杉県令や笹森儀助の目に止まったはずですし、県技官であった児玉が書き落とすはずがありません。
 日清戦争以後から第二次大戦終戦までの間、日本に領有された台湾からこれら二種の品種は導入されたように思われます。
ナンバンコマツナギは遥か中南米から「銀の船」に乗り「絹の船」に乗り地球を半周して、多くの人の手を経て八重山の地に栽培されるようになったのでしょう。       


  

by modama | 2007-06-06 11:52


<< 藍・八重山諸島に伝わる藍      カメラが戻ってきました >>