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石垣島便り

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2007年 06月 16日

藍・八重山の藍、私の推理

これまで長々と八重山の藍について書いてきたが、ここいらで私個人の推測を述べて終わりたい。
まず、「李朝実録」を読んでの感想だが、あの風俗描写で強く印象に残ったのは、
「与那国島・牛・鶏の肉を食べない」「西表島・牛は食べるが鶏は食べない」
「新城島・牛は食べるが鶏は食べない」「黒島・牛は食べるが鶏は食べない」
「与那国・食物には専ら米を用いる」「黒島・水稲はないが西表島と交易している」
「新城島・稲米は西表島から買う」などである。
これらのことから「無土器期」以後の12世紀ごろから八重山・宮古には
大陸から鳥を崇拝する稲作民族が入ってきたのではないかと想像する。
牛、鶏などを伴った計画的な移住があったのかも知れない。
ひとつの案としては、その時、藍も持ち込まれたかも知れない。
この場合、大陸沿岸部に暮らしていた(現在)少数民族と呼ばれる分派と考えられる。
藍は越国を原産として、大陸沿岸部を北上して韓国に、
一方、中国から日本に伝わった蓼藍と、現在、大陸南東部に広く用いられている馬藍(琉球藍)が考えられる。
と同時に、14世紀頃、もしくはそれ以前から(例えば、トカラ・奄美などに南下した人々がさらに南下したり)新たなグループの日本人が南下して、先住する島人に鉄などと共に蓼藍をもたらしたのかも知れない。
14世紀以降になると彼らは、三つの勢力が力を増し競い合う沖縄を避け、太平山(八重山)の
島々に居留したりして中国からの私交易を行い、さらに南へ交易を目的に南下したりしたのかも知れない。
その中継基地として八重山は役割を果たしていたのではないだろうか。
統一された琉球王府は、倭の八重山・宮古への影響を懸念し、1500年ごろから支配に乗り出したのかも知れない。
しかし、八重山・宮古を中継基地としていた倭の民は、私的な商業活動であって国を治めるなどという野望はなく、
霧散したのであろう。後の、豊臣・島津の動向などとは関わりなく・・・
そんな民たちの活動が歴史に書かれない部分で垣間見られる気がする。

by modama | 2007-06-16 01:14


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