石垣島便り

modama.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 06月 ( 16 )   > この月の画像一覧


2007年 06月 26日

突然の訪問者

今日、部屋にいると犬のジンが吠え、男の人の声が外で聞こえた。
外にでると見知らぬおじさんが立っている。
「どなたですか?」って尋ねると
「どなたと言う程のものではないですが、中尾と言います」と答える。
「あの・・・タシロマメの花は何時咲きますか」
突飛な質問にちょっとたじろぐ。
「まだ、早いですね」
「そうですか・・・よかった・・・これからですね。あの・・・シロツブを見つけました」
どうやら、これを告げたかったらしい。
「ハスノミカズラではなく、シロツブですか?」
「ええ、葉が小さくて、幹に細かいトゲが沢山あって・・・」
どうやら、間違えではないらしい。
と言うわけで、早速、現地に見に行った。
場所は、三年程前まで頻繁に調査していた所。
その頃は発芽したばかりで護岸と草に隠れて見つからなかったようだ。
今では、護岸のすぐ前に葉を茂らせている。
漂着した種子が発芽して自生したに違いない。
5~6年生のようだ。
これまでに花を咲かせた形跡はない。当然、実も着けたことがない株だろう。
以前、私が野底で見つけた株は、潮の影響を受けすでに枯れてしまった。
ゲッチョさんやユキさんの見つけた株はどうしているのだろうか。
中尾さんの話では、前に名蔵湾でも見つけたが葉が黄色くなって枯れてしまったと言う。
漂着自生だからしかたがない。何百本に一つが残れば奇跡かも知れない。
しかし、護岸の海側だからいつかは、台風によっては一掃されてしまう。
それにしても、昨年の13号台風(最大瞬間風速69メートル)をよくも生き延びたものだ。
c0023181_037117.jpg


by modama | 2007-06-26 00:37 | Comments(0)
2007年 06月 25日

森の賢者は言う

c0023181_2352576.jpg


「これ以上、お前の近寄る場所ではない」

「もし、己を省みず、踏み込めば、お前の失うものの大きさに気づくだろう」

「わしは、お前を残して・・・・飛び去るだけ・・・・・」

「踏み込んだ場所にお前は佇むがいい・・・・

今という時間と共に失ったものは、決して取り戻すことができない」

by modama | 2007-06-25 23:52 | Comments(0)
2007年 06月 18日

ヒョロヒョロのバオバブその後

c0023181_9331513.jpg

今年は前半空梅雨かな、って思われる天気だったのに、最近になって雷雨がつづき、
けっこうな雨が降りました。
ヒョロヒョロのバオバブも葉をつけ、やっとそれらしい姿にもどりました。
ナンバンアカアズキはクリーム色の花を咲かせています。
コノハズクは一段と警戒心を強め巣の護りをしています。
また、カラスが様子を見にくるようになりました。
リュウキュウクマゼミも羽化をしはじめ、まもない夏にそなえています。
梅雨明けと共に一斉に鳴き出すことでしょう。
長い夏のはじまりです。

by modama | 2007-06-18 09:33 | Comments(0)
2007年 06月 16日

藍・忘れていた資料

もう、沖縄の藍について書くのは終わりにしようかと思っていた矢先、忘れていた資料が見つかりました。
それは、2000年1月に沖縄タイムスに連載した「嶋藍・唐藍考」の後に発見したものです。
県立図書館からの封書に平成13年11月の消印が押されていますから、目にしたのは、
一年半以上たってからのものです。
コピー資料は、大正二年十月二十二日の「琉球新報」見出しは「本県の山藍の将来」とあります。
字が小さくコピーなもので、読みづらい箇所もありますが要約すると以下のようです。
「元は本県も阿波藍のように葉を発酵させべたべたに汚(?)ちたところで臼に入れつき固めて
丸めた所謂玉藍を製造していたそうだが今から四代許(?)前に泊の人で大真栄城某・はじめて
支那に於いて其の製法を研究し○○現今行わるる様な泥藍製造に変わり同氏は其効に依り
時の国王より莫大な御褒美に預かったと云ひ伝えられている・・・」
この記事では、泥藍の製法が伝わったのか、山藍(唐藍)も同時に持ち込まれたのか分りませんが、
沖縄における泥藍製造の起源が予想されます。
文章を読むと「それ以前は山藍も玉藍にしていた」ように受け取れますが、それは専門外の
記者の記述ですので真意は測りかねます。
いずれにしろ、「琉球国由来記」の記述が見られる以後の出来事です。

(大正2年・1913年ですから、四代前を150年前として1763年頃になります。
 1700年代半ば(18世紀半ば)に大真栄城によって琉球藍(唐藍・山藍)の泥藍製法が
 沖縄に伝わったことになります)「いちだい発見ですね~!!」

by modama | 2007-06-16 12:54 | Comments(0)
2007年 06月 16日

藍・八重山の藍、私の推理

これまで長々と八重山の藍について書いてきたが、ここいらで私個人の推測を述べて終わりたい。
まず、「李朝実録」を読んでの感想だが、あの風俗描写で強く印象に残ったのは、
「与那国島・牛・鶏の肉を食べない」「西表島・牛は食べるが鶏は食べない」
「新城島・牛は食べるが鶏は食べない」「黒島・牛は食べるが鶏は食べない」
「与那国・食物には専ら米を用いる」「黒島・水稲はないが西表島と交易している」
「新城島・稲米は西表島から買う」などである。
これらのことから「無土器期」以後の12世紀ごろから八重山・宮古には
大陸から鳥を崇拝する稲作民族が入ってきたのではないかと想像する。
牛、鶏などを伴った計画的な移住があったのかも知れない。
ひとつの案としては、その時、藍も持ち込まれたかも知れない。
この場合、大陸沿岸部に暮らしていた(現在)少数民族と呼ばれる分派と考えられる。
藍は越国を原産として、大陸沿岸部を北上して韓国に、
一方、中国から日本に伝わった蓼藍と、現在、大陸南東部に広く用いられている馬藍(琉球藍)が考えられる。
と同時に、14世紀頃、もしくはそれ以前から(例えば、トカラ・奄美などに南下した人々がさらに南下したり)新たなグループの日本人が南下して、先住する島人に鉄などと共に蓼藍をもたらしたのかも知れない。
14世紀以降になると彼らは、三つの勢力が力を増し競い合う沖縄を避け、太平山(八重山)の
島々に居留したりして中国からの私交易を行い、さらに南へ交易を目的に南下したりしたのかも知れない。
その中継基地として八重山は役割を果たしていたのではないだろうか。
統一された琉球王府は、倭の八重山・宮古への影響を懸念し、1500年ごろから支配に乗り出したのかも知れない。
しかし、八重山・宮古を中継基地としていた倭の民は、私的な商業活動であって国を治めるなどという野望はなく、
霧散したのであろう。後の、豊臣・島津の動向などとは関わりなく・・・
そんな民たちの活動が歴史に書かれない部分で垣間見られる気がする。

by modama | 2007-06-16 01:14 | Comments(0)
2007年 06月 15日

藍・物と技術

前文では、琉球国由来記に見られる藍の記述を考察したが、それは、あくまでもあの記述が
正しいとしてのことである。
島津が1609年に琉球へ進攻してからの編纂であるから、何らかの配慮があるのかも知れない。
しかし、14~15世紀、琉球が明に朝貢したり、東南アジアでの交易をとおして華々しい時代を
迎え「物の流れ」は活発化しても、すぐに庶民の文化が大きく変わったわけではないようだ。
「島」という地域に出入りする「物」と生産する技術は、同一ではない。
藍を作り、建て染めるには、それなりの経験と技術を持った「人」の渡来を待つか、
逆にそれらの文化を持つ地域に出向いて習得して帰るしかないからである。
その点では、薩摩の人、酒匂四郎右衛門の渡沖は可能性を秘める。
では、それに先駆けた八重山・宮古における藍は、どのようにして伝わったのだろうか。
古文書による記録が無い以上、当時の八重山・宮古の歴史的背景と想像を交えて考えるしかない。
八重山の考古学から推測すれば、
3700~3800年前までは下田原式土器の時代で「下田原期」とよばれている。
その後、遺物は途絶え、やがて、1500~1800年前になって「無土器期」が12世紀ごろまでつづく。
この頃になって中国の白磁碗、徳之島のカムイヤキ壷、長崎の滑石製石鍋などの容器が入り、
滑石製石鍋を模倣した土器が作られ「無土器期」が終わる。
12世紀後半~13世紀にかけて、「新里村式土器」「ビロースク式土器」が作られる。
この頃、中国陶磁器類も白磁碗だけでなく、青磁碗、白磁、青磁皿などが入り「新里村期」と呼ばれる。
14世紀になると大きな社会的変化が起こり、人口が増え、集落が大きくなり、屋敷を石垣で囲むようになる。
(以上、金武正紀より)
1477年、李朝実録に記された藍は、このような背景をもとに推測されなければならない。
まず、12世紀までの「無土器期」に藍染の可能性はないであろう。

土器のある時代から無土器期へ、その後、再び滑石製石鍋を模倣した土器が作られる。
この辺りが、島嶼の文化変遷の特徴で、大きな島や大陸の時代推移とは異なる。

さて、このように八重山の歴史を見ると、藍が入った年代は14世紀以降のように思われる。
この時代、(14世紀)沖縄では三山時代から,(15世紀)1427年第一尚氏王朝、1469年第二尚氏王朝を迎える。
この頃まではまだ、琉球王府による八重山への干渉はあまりなかったようで、
尚真王の時代になって奄美・先島へも中央集権化が推し進められる。
沖縄で群雄割処から統一までの時代、八重山では人口増加と大きな社会変化がみられていた。
八重山・宮古は太平山と称され、穏やかな時代が続いたのだろう。
やがて、統一した沖縄の勢力が及ぶようになり、1500年石垣島でオヤケアカハチの乱、
1522年宮古の中宗根豊親が尚真王に宝剣「治金丸」を献上して八重山・宮古が
王権に服することになる。

もう一度、「李朝実録」の記述にもどると1477年頃の八重山には、鍛冶屋がいて、鎌や斧、
小さな刀や槍などの鉄器をつかっていたとある。技術を伝え継ぐことはできるが、
材料となる鉄は、長年のうちに消耗されるはずだから、島にもたらす人々の往来があったことになろう。
また、宮古の中宗根豊親に「治金丸」という日本刀を授けたのは誰なのだろうか。
そして、豊親が従属の証として、その「治金丸」を琉球王に献上したということは何を物語っているのだろうか。
「無土器期」(12世紀)以後の島の民と八重山・宮古に鉄などを供給した人々の訪れが、
八重山・宮古に「藍」をもたらした「鍵」を握るように思われてならない。

by modama | 2007-06-15 12:23 | Comments(0)
2007年 06月 14日

身の細る思いで待っています

c0023181_17195913.jpg

数日前、雷雨もあって、もうじき、梅雨も明けるのかな・・・南の風が強い。
前線が少し北上したのだろう。

「早く巣立ちの日がこないかな~」
最近、カラスも来ないし、ウト、ウト・・・身を細めにして、ウト、ウト・・・
「私は今、木の枝なのだ・・・私は木の枝」
「誰も気づいていないはず・・・」
「うぅん?」

by modama | 2007-06-14 17:20 | Comments(0)
2007年 06月 11日

藍・蕃署と藍

前文では、沖縄における琉球藍(唐藍)渡来の記述が古文書に見られないことを書いたが、
その訳を推測してみたい。
「琉球国由来記」は、琉球王府が編纂した国史にあたる文書であるから、記述を信じるとして
考察すると、1612年まで沖縄に藍染は無かったことになる。しかし、八重山・宮古では藍の存在が窺われる。
これを素直に受け取ると、八重山・宮古の方が早くから藍が導入されていたことになる。
国を治める側の姿勢としては、いち地方が先んじた事柄より、由緒のはっきりした出来事
(酒匂が藍染を伝えた)を記録する、のは恒であろう。
沖縄における藍染の始まりより数年早い萬暦三十三年野国総監が福建より持ち帰ったサツマイモの
記録は載っている。
これは薩摩より先駆けわが国(琉球国)に伝播した事実なのだから特記に値するだろう。
では、琉球藍の渡来記述が無いのは何故かというと、すでに沖縄には蓼藍があった後に
琉球藍が持ち込まれたからと、琉球国由来記が編纂された1713年以降の出来事だからなのであろう。
蔡温の「農務帳」1734年には唐藍の記述は無く、「与世山親方八重山嶋農務帳」1768年になって記される。
おそらく琉球藍の渡来は1700年代半ばと思われる。つまり、その時代では書けなかったのだ。
もし、蓼藍以前(1612年以前)か、編纂以前に琉球藍(唐藍)が沖縄に入っていれば、
サツマイモのごとく琉球国由来記は記述したであろう。
では、沖縄より先に八重山・宮古に藍があったのか、ということになるが、それは充分ありえる。
「島」という海に閉ざされた地域に文化が伝来するチャンスは偶然性に大きく左右されるからだ。
交通手段(船舶の所有)の発達した大きな島だからといって、すべての面で先んじる訳ではない。
ましてや、伝来となると他所から海を渡って入るわけだから(受動的な場合)、
はじめは思いがけない地に伝わる可能性はある。
ましてや、李朝実録に記述された1477年以前となると琉球王府の先島における支配力も
さほど及んではいなかった。1500年オヤケアカハチの乱などが良い例である。
琉球国由来記に書かれない藍の歴史が八重山・宮古にあったのであろう。
何時頃、何処から、どなん藍が入ったのか・・・。
しかし、それを解き明かす資料は今のところまったく無い。



(訂正とお詫び。2000年1月に沖縄タイムスに連載した「嶋藍・唐藍考」のなかで、日本における
藍染で奈良時代から「藍建て」が行われていた記述がありますが、スクモの製造とそれによる
藍建の技法は、室町時代になってからのことです。訂正してお詫びいたします)

by modama | 2007-06-11 10:35 | Comments(0)
2007年 06月 11日

藍・沖縄の藍を考える

これまで、沖縄における蓼藍を書いてきたが、琉球藍(唐藍)はと古文書をあさってみるが、
渡来などに触れる文献がない。
むしろ蓼藍ではなかろうか、という記述が「琉球国由来記」1713年にある。
染物師という項目に、萬暦四十年(1612年)、「当国には、それまで木の皮などで染めることはあったが、
薩州の人、酒匂四郎右衛門によって初めて藍染めがなされる」とある。
この人物は、その後1632年に、久米島に泥染め技法を伝授しているので、
染に関して広い知識と技術を身につけていたらしい。
萬暦四十年、と言えば慶長17年、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘した年。
薩摩の人というから「藍染」と言えば、蓼藍の可能性がたかい。

でも、1477年に八重山及び宮古では藍染をしていたことが「李朝実録」に記載されているので、
「琉球国由来記」の記述を鵜呑みにすることはできないだろう。
沖縄には、まだ、藍染がなく八重山にはあったのだろうか。
沖縄に琉球藍は入っていなかったのだろうか。
琉球藍は、その後に入った可能性はある。
だが、以前には藍染がなされていなかったと言う記述と
八重山における藍に関しては多くの疑問が残される。

by modama | 2007-06-11 01:21 | Comments(0)
2007年 06月 09日

あっちむいてほい

c0023181_23533797.jpg

おまえを見ようとすると、おまえはすぐに気づいて私を見る。
私がおまえを見ているというより、いつも、私がおまえに見られている、といった感じ。
おまえの目を見ていると、私の心はなにも隠すことができない。
すべて見透かされて、私はたたずむ。
だから、今日は、・・・あっちむいてほい、・・・パチリ。
私の勝ち。
ちょっと遊んでくれただけだよな~。

by modama | 2007-06-09 23:53 | Comments(0)